1956-1965年「モーレツものづくり」

1956-1965年「モーレツものづくり」

バスシート国内シェア約6割を達成
その技術力を幅広いフィールドで活かす

量産体制を確立し、好景気の波に乗る

日本の高度経済成長の起点となった神武景気、観光バスの需要拡大……数々の好機を逃さず、技術力を高め続けた天龍工業。1960年、バスシート生産の国内シェアが約6割に達しました。その支えとなったのは、1958年に発表した「3・3プラン」。連続供給・連続作業方式を確立し、生産の合理化を進めました。さらに、1960年に「5カ年計画」、1964年に「天龍十則」を定めて昇龍の如く業績を伸ばし、工場や営業拠点の拡充、福利厚生施設の充実を図り、企業として堅実に成長していきました。

シートにとどまらない新製品の開拓

天龍工業の躍進を後押ししたのは、新製品の開発や事業拡大でした。1957年には、約4年におよぶFRPの研究が実を結び、業界初の「ポリエステルシート」が完成しました。体の曲線にフィットさせる加工や量産化が容易にでき、デザインも近代的。発表してすぐ、バスメーカーからの注文が殺到しました。このFRP技術を活かし、ポリエステルボート、ボウリング場設備、スキーストック、FRPパイプなどを次々と開発。時代が求める製品を生み出そうと、マッサージ機や鉛筆自動販売機なども手掛けました。

全国から注目を集める「天龍ブランド」

昭和天皇・皇后両陛下が初めて富士登山に興じられた1957年、御召バスのシートを謹製したのが、天龍工業でした。さらに1960年、岐阜市の中小企業モデル工場に推薦された本社工場を、高松宮殿下がご視察になり、生産現場や強度試験、耐久試験などをご見学されました。また、モーターショーには毎年、意欲的に参加。展示デザイン部門で栄えある1位に輝くほど、オリジナリティを追求したブースが製品とともに話題を集めました。こうした実績が積み重なり、「天龍」の名は全国に広がっていきました。

TENRYU WAY―挑む天龍魂

伊勢湾台風にも負けず、被災後約1週間で生産を再スタート

本社工場のほぼすべての建物が全壊。資材が散乱し、機械や器具はひん曲がり、製品は泥まみれ。名古屋工場も屋根まで浸水。1959年9月、東海地方に悪夢のような一夜をもたらした伊勢湾台風に、天龍工業は当時の金額で1億円もの甚大な損害を受けました。多くの従業員の自宅も全半壊。それでも彼らは挫けることなく、わが家より「わが会社」をまず先に立て直そうと、翌朝、工場に駆けつけました。その懸命な姿を目にして、涙が止まらなかった福西勇社長。「断じて再起してみせるぞ」と固く決心し、従業員とともに復旧作業に励みました。
被災からわずか3日後、機械工場が稼働。続いて木工工場、溶接工場、縫製工場も動き始め、1週間後には全生産ラインが息を吹き返しました。自分たちの会社や仕事に熱い思いを寄せ、一致団結した従業員たちが、驚異的な力を発揮したのです。大きく燃え上がった不屈の連帯感は、その後の飛躍の原動力となりました。

あの日の天龍

1963年11月3日:第1回文化祭を開催し、全社の結束がさらに強まる

「技能・芸能コンクール」をメインイベントとして、第1回文化祭が華々しく開催されました。競技種目は設計、塗装、組立、珠算など業務に関することから、各種スポーツ、囲碁、パズルゲームまで、実に多彩。予選を勝ち抜いた猛者たちが、秋晴れの文化の日、「天龍ナンバーワン決定戦」に挑みました。社内各所でさまざまな熱戦が繰り広げられ、全社を挙げての大盛り上がり。屋台・バザーも開かれて、従業員や家族がともに笑顔を輝かせる賑やかな一日になりました。

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