1966-1975年「大航海時代」

1966-1975年「大航海時代」

天龍ブランドがついに国際市場へ
多分野での新製品開発・生産も勢いを増す

グループを拡大し、健全成長を目指す

創業20周年を迎えた青年期の天龍工業は、新たな分野、航空機産業に挑戦。1967年から航空機用FRP製部品の受注生産、組立作業に着手しました。同時に、一つひとつの製品の質、一人ひとりの仕事の質を高めるために、ZD運動※を導入。「クレーム、手待ち、欠品のゼロ」を目標とし、全社ZD成果発表会を開催して、課題やその解決策を共有しました。目指したのは、企業としての健全成長。1970年には緑化や運輸などの部門を独立させて天龍グループを拡大し、日本から世界へと視野を広げました。
※ZD運動…1960年代にアメリカから日本へ広がった、製品の欠点をなくしていく取り組み。

アメリカ2社と技術提携し、海外に挑む

1969年、新設して間もない航空機部門に、大チャンスが訪れました。海外企業との技術提携です。アメリカの大手航空機・電子機器メーカー、航空機シートのトップメーカーと契約を交わし、大型旅客機用シートの国産化を果たしました。これは、日本初の快挙でした。さらに1972年には、3年がかりの努力が実を結び、米国連邦航空局の厳しい審査をクリア。大型旅客機用シートの仕様承認を得て、天龍シートが「国際商品」として脚光を浴びました。このようにして、天龍グループは海外進出の礎を築いたのです。

社会が求めるものを次々とカタチに

技術力アップ、作業の効率化、コストダウン、売り上げ増加。各事業部門が全力を尽くして目標を達成するとともに、大阪万博で採用されたサニーベンチャーや植生芝、家庭用スチームバス、人工透析治療用チェアなど、社会ニーズに応える新製品を次々と生み出しました。1973年のオイルショック以降は、エネルギー不足時代を見据えた太陽熱温水器「テンリューヒーター」を開発・販売。1974年に協力会社55社と「龍友会」を組織し、高付加価値の製品づくりに情熱を注いでいきました。

TENRYU WAY―挑む天龍魂

時代のボウリング熱に応え「大府アストロボウル」をオープン

1970年代の初め頃は、ボウリングブームの絶頂期。その熱を受けて、天龍工業は名古屋工場の機能を本社工場に移し、広大な跡地に総合レジャータウン「らぶらぶ」を建設しました。そして1972年、アメリカ製・最新鋭アストロラインを日本で初めて導入し、「大府アストロボウル」をオープン。アミューズメントという異業界にも果敢にチャレンジし、地域に活気を呼び込みました。

あの日の天龍

1973年9月18日:福西勇社長が急逝 ―全従業員が志を引き継ぐ

温厚でありながら、情熱のかたまりのような人柄で、幾多の荒波を乗り越えて天龍グループを導いてきた福西勇社長。いつも社訓を胸に、社内改革や製品開発、販売戦線の強化に尽力し、道なき道を切り拓いてきました。従業員の誰もが敬愛する社長との別れは、突然。雨が降り続く、初秋の日でした。残された一人ひとりは涙をぬぐい、社長の志を受け継いで、さらなる飛躍発展に邁進していくことを心に誓いました。

次の10年を読む

1976-1985年「一流の追求」

基本と原点を再確認しながら
製品・企業・社員の「質」を磨く

70年の歩み